北国街道から広宣流布を見つめて
一眼の亀
2012/04/19 04:24
海底に一匹の亀がおりました。

この亀の寿命は「無量劫」という数えきれない程の寿命があり、およそ凡夫の計算上では半永久とも言える寿命です。

この亀には目が1つしかなく、また手足も無く、そのうえお腹は鉄が焼けるように熱く、背中は雪山のように冷たく、大変な苦しみに責められておりました。

この亀の願いは

“熱いおなかを冷やし、冷たい背中を暖める”

ということでした。

背中を暖めるには海上に出て太陽の光を浴びるしかありませんが、それと同時にお腹を冷やすには赤栴檀(しゃくせんだん)という特殊な浮き木が必要です。

また広い大海原にたまたま赤栴檀が浮いていたとしても、赤栴檀に丁度亀のお腹を冷やす為のピッタリ入る穴が空いていなければなりません。

更に、この亀は千年に1度しか海上に浮かび上がることができず、手足が無い為に自由に泳ぎまわることができませんから、その場所から浮かび上がることしかできないのです。

広い大海原にやっとの思いで浮かび上がっても、浮き木に巡り会うことは希であり、たとえ浮き木に巡り会っても、赤栴檀の浮き木に巡り会うことはもっと希なことです。

また、運良く赤栴檀の浮き木に巡り会っても、亀のおなかがピッタリ入る穴があいているものは希であります。

穴は大きくても小さくてもダメですし、ピッタリ合うものでなければ、すぐに波風に合い、落とされてしまいます。

不思議にも、自分に丁度合う穴のあいた赤栴檀の浮き木を発見したとしても、この亀は目が1つしかありませんので、西を東と見てしまい、近づこうとしても、かえって遠ざかるというようなことにもなります。

ましてや、手足が無いわけですから、赤栴檀の浮き木に近づくこと自体、至極至難のわざです。

このように、この一眼の亀は、計り知れないほどの永い間、苦しみ続けていのです。

この話の中の
「海」とは生死の苦海に喩えられており
「一眼の亀」とは私たち衆生に喩えられております。

「お腹の熱い」ことは、私たちが瞋恚の為に起こる八熱地獄の苦しみであり
「背中の冷たい」ことは、私たちが貪欲のためにおこる八熱地獄の苦しみに喩えられております。

「千年間も海の底にいる」ということは、私たちが悪業を作って、一旦、地獄・餓鬼・畜生の三悪道(三途)に堕ちてしまったならば、再び浮かび上がることは難しいということに譬えられ

「千年に1度浮かび上がる」ことは、再び人間に生まれ変わることの難しさ、更には釈尊の出世に会うことの難しさに喩えられております。


「赤栴檀以外の木に巡り会い易く赤栴檀には中々巡り会えない」ということは、『法華経』以外の一切経に会うことはできても、仏様の最高の教えである『法華経』に会うことの難しさに喩えられております。

「たとえ赤栴檀に巡り会っても、自分のおなかに丁度合う穴のあいたものに巡り会うことの難しさ」は、私たち衆生がせっかく最高真実の『法華経』に巡り会っても、『法華経』の肝心である「南無妙法蓮華経」を唱えることは難しいことに喩ええられております。

「目」については、全く信心の無い人を無目に、利他の心の無い人を一目に、仏法を自分も求め、他をも弘めようとする方を二目に配されております。

また、この亀に手足の無いことは、私たち衆生が「自分は智慧が有る」と慢心を大なり小なり起こして、その実は最高の教えを見下し、程度の低い教えを最高であると思っているようなものであります。

末法の世には、このような慢心の人が多いために、邪宗教が持てはやされ、それらが大いに栄えてしまい、正しい真実の仏様の教えが流布することを、妨げてしまうのです。

虚心に慢心を捨て、正しい師について仏教を学べば、自ずから正しい宗教辿り着くでしょうが、しかし、その正しい師に巡り会うことも又難いのであります。


大聖人様は三三蔵祈雨事に

「されば仏になるみちは善知識には過ぎず。わが智慧なににかせん。ただ熱き冷めたきばかりの智慧だにも候ならば、善知識大切なり。而るに善知識に値ふ事が第一の難き事なり。されば仏は善知識に値ふ事をば一眼の亀の浮木(ふもく)に入り、梵天より糸を下げて大地の針の目に入るにたとへ給へり。而るに末代悪世には悪知識は大地微塵よりも多く、善知識は爪上の土よりも少なし」(御書873n)

と仰せであります。

自分を正しい道に、最高の教えに導いて下さる方は一体どなたであるかと考えれば、第一に御法主上人猊下様であり、更には身近にいらっしゃる指導教師の御住職様であります。

この一眼の亀のお話を通して、人間として生まれたことの尊さをもう一度深く考え

「自分はたまたま生まれてきて、たまたま生きているのではない。
一眼の亀のように、色々な因縁を得て、ようやく生まれてこれたのである。
されば、その生まれてきた目的とは、正しい仏法を信仰して成仏する為であり、この機会を逃したら次はもうないのだ」

と知り、1日1日を無駄にせずに、正しい信心をもって日々精進しなければなりません。

それは誰の為でもない、自分の為だからです。


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